察しなかった心、自覚しなかった罪
「他人の気持ちを察することができる薬?」
お伽噺ですよ、とネフリーは答えて目の前の机の上に置かれた古ぼけて汚れた壺を撫でる。
「どうせお伽噺にあやかった縁起物か、霊感商法の類いが落ちですよ」
先日ネフリーが骨董品の収集が趣味だった祖父の遺した倉庫を整理していた時にでてきたもので、壺を仕舞っていた箱には当時の言葉で人の気持ちが分かる薬だと記されていたそうだが、現実的なジェイドは一笑に付してしまい、ネフリーも信じてはいないらしく苦笑している。
「大昔、この大陸がまだマルクトではなく幾つもの小国に分かれていた時代が舞台のお伽噺にでてくるんです。ある国にとても傲慢な、人の気持ちが分からない若者がいて、それを懲らしめるためにひとりの魔女が魔法の薬を作って飲ませたと。その薬で他人の気持ちが良くわかった若者が傲慢を改めて終わるんですけどね」
「まぁ、とても素敵な魔法ではありませんか。人の気持ちが分かるようになるなんて!」
「で、これがその薬だって言うのか?確かに時代がかかってそうな作りだが・・・・・・」
眼を輝かせたナタリアとは対照的に、ガイは目の前の古い壺に胡散臭そうな目を向ける。
「祖父も信じていた訳ではないでしょうけど、そういう不思議な物が好きな人でしたからね」
「でもこの壺はかなり古そうだし精巧も見事だな、壺だけでも価値があるんじゃないか?」
「ええ、ですから磨いて知事室に飾ろうかと思っているのですが、中の薬をどうしようかしら」
「捨ててしまえば良いでしょう、縁起にしろインチキにしろ偽薬に変わりありませんし、磨くのにだって邪魔になります」
「あー、じゃああたしが捨ててきますね、ガイ、ティア、手伝って!」
「え?おい、アニス!わかったから触らないでくれって!」
強引にアニスに手を引かれそうになり慌てたガイが自分から立ち上がって壺を持つと、アニスは今度は強引にティアの手を引いて部屋を出て行った。
ジェイドたちは特に不審を持たず、お願いしますね、落とさない様に気をつけて下さいまし、と声をかけてそれを見送る。
「おいおいアニス、何張り切ってるんだよ?」
「アニスってば、どうしたのよニヤニヤして」
戸惑うガイとティアにアニスは「ねぇ、この薬ルークに飲ませてみない?」と提案する。
「人の気持ちが分からない傲慢な人間を、人の気持ちが分かるように変えられる・・・・・・確かにルークにぴったりだな」
「今は少しは変わったけど、あの頃は酷かったわ、無神経でわがままで傲慢で、人の気持ちを察したり気遣うことができなくて・・・・・・」
そう出会ったばかりの頃のルークを思い出して溜息をつくティアに、アニスとガイも同意する。
「ほんとうだよねぇ、まあ今は努力してるし、ちょっとは認めてやってもいいけどぉ、でもティアの気持ち全然分かんないじゃん」
「そういう所は成長しないからなぁ、もっとティアのこと気遣ってやればいいのにな」
「ガ、ガイ、アニス!」
赤くなるティアにニヤニヤと笑ってアニスとガイは更にからかう。
「でもルークだってティアのことを好きなはずだし、ティアの気持ちが分かるようになればルークの方ももっと積極的になるんじゃないのか?」
「そうそう、あの人の気持ちが分からないところは見てても苛々するんだよね〜」
「この薬が本物かどうか分からないけど、ものは試しだな」
そうしてガイとアニスは壺の中に入っていた薬をそっとルークに飲ませてみようとと相談する。
ティアも二人を止めようとはせず、期待に頬を染めて頷いた。
三人が部屋に戻ると、ネフリー、ジェイド、ナタリアは用事でもできたのか席を外していたが、ノエルと共に買い出しにいっていたルークが戻ってきていて、アニスの持っている薬をみて首を傾げる。
「なんだそれ、砂糖か?変な形だけど」
「でも可愛いですね。星型の砂糖だなんて」
その問いかけに透明に近い白の薬は、星のような形を除けば見た目は固められた砂糖にも見えることに気付き、アニスはにっこりと笑って肯定する。
「うん砂糖砂糖。さっき街で見かけたんだけど可愛いからつい買ってきちゃった。ほら、ルークにもあげるから使ってみなよ!」
そう言ってルークに押し付けるように薬を渡ししめしめと忍び笑いを漏らすアニスに、ガイはこっそり親指を立てて称賛を送り、ティアは効果を予想したのか赤くなりながら期待するような眼でルークをみる。
三人の示し合わせたような態度にルークは不審そうな顔をしたが、ありがとな、と礼を言って疑うことなく薬をポケットに入れた。
ところが三人の目論見は、次の日には当てが外れてしまった。
「えええええ!あたしたちのお茶に入れちゃったの!?」
「は、・・・・・・はい、砂糖が切れていたので困っていたら、ルークさんが昨日の砂糖を下さって」
ガイ、ティア、アニスの三人がノエルの入れた茶を呑んでいた時、妙に甘みが足りないことに気付いたアニスが問うと、昨日のお砂糖を使ったんですけど、甘さ控えめのものだったのでしょうか?と不思議そうに答えた。
ルークは昨日うっかり買い忘れたものを買い直しに行くからと断っていたため、そのお茶がルークの口に入ることはなかった。
「がーん!アニスちゃん大ショック〜せっかくの計画が・・・・・・」
「あれだけ渡さずに直接入れればよかったなあ」
こそこそと密談する二人を訝しげにみるノエルになんでもないと手を振って、気を落としているティアを慰める。
「まあ、でも飲んだ俺たちがなんともないってことは、やっぱりジェイドの言った通りインチキ品だったんだろうな」
「あ、そっか。じゃあ入れても同じことだね。やっぱりお伽噺はお伽噺かぁ」
「それもそうね、一緒にいる私たちが矯正してあげるしかないわ」
「ほんと面倒見が良いよねティアって、年下なのに姉さん女房になっちゃうよ?」
「アニス!」
「ははははは」
その時は、偽薬だったと結論付けて終わってしまった。
けれど数日後、ティアとガイがファブレ公爵家に訪れた時にそうではなかったと分かった。
『なんて傲慢な女かしら、素知らぬ顔をしてこの屋敷に出入りできるなんて。襲撃犯のくせに、私たちや奥方様、ルーク様を巻き添えにしたくせに』
「え?」
頭の中に響くように聞こえた女の声に、ティアがきょろきょろと首をふると、ふと自分を睨むように強い視線で見ていたメイドと目が合う。
メイドはすぐに黙って頭を下げて踵を返したが、ティアの耳には再び先程の声が響く。
『ガイもガイだわ、ヴァン謡将の共犯者だったくせに、どうして何食わぬ顔をしていられるのかしら。私たちに何時も優しくてフェミニストだと思ってたけれど、ルーク様の兄のようだと思っていたけれど、ただ偽りの笑顔を浮かべて腹の底では騙される私たちを見捨てていただけだったなんて幻滅したわ。私たちに謝りもせず、謝る必要があるとも思わないままで、笑って屋敷に出入りするなんて、人の気持ちが分からない傲慢な人たち』
「なっ・・・・・・」
ティアの隣にいたガイも聞こえたらしく、真っ青になり笑顔を失っている。
「ちょっと、あなたなんてこと言うの!」
ティアが怒ってメイドの肩を掴むと、ナタリアとルークは戸惑ったようにティアを止めた。
「どうしたんですのティア、この娘が何かしまして?」
「なんてこと言うのって、アンナは何も言ってないぞ?」
「言ったでしょうあんなに大きな声で、私やガイが傲慢だって!」
「お、俺にも聞こえたんだ、確かにアンナの声だった」
同僚だったガイは声を覚えていたらしくそう主張するが、それでもルークとナタリア、それにジェイドやノエルも加わって否定する。
「・・・・・・俺には何も聞こえなかったぜ?」
「わたくしにもですわ、一体どうしたんですのティアもガイも」
「私にも何も聞こえませんでしたが、疲れているのではありませんか?」
「私からはアンナさんの顔が見えてましたけれど、口を開いてもいませんでしたよ?」
結局その場は疲れからの幻聴だろうということで落ち着いたが、ティアとガイはあの嫌悪に満ちた声と、冷たい視線と、糾弾が忘れられなかった。
ティアは兄を討つために仕方なかったのだと抗弁したかったが、アンナは何も言っていないことで落ち着いたのでそれもできず引き下がるしかなかった。
そして数日後、ティアとアニスをグランコクマのガルディオス邸に呼び出したガイの顔は、やつれ青褪めて何時もの笑いもなく酷い様子になっていた。
アニスもガイと似たり寄ったりで、眠れないのか目の下には濃い隈もできてしまっている。
「・・・・・・ダアトに帰ってから、幻聴が聞こえるようになったの」
泣き続けた後のような掠れた声で、アニスはぽつりぽつりと話し始めた。
『何が最後の導師守護役か、その導師の守護を怠っていたくせに』
『タルタロスの襲撃を、幾度もの公爵子息や皇帝の名代や王女の襲撃を手引きしたくせに』
『救援を要請する使者の襲撃を手引きして、導師が助けたいと願っていたアクゼリュスの人々から救援を奪って死なせようとしたくせに』
『親が人質だって?冗談じゃない、あの夫婦は普通にここを出入りしていたし、旅行を計画していたことだってあったんだぞ』
『女性導師を目指すと言っているが、自分の罪を自覚していたから許されたらしいが、罪は自覚しても罪を犯すほど無能だったことは自覚しないなんて随分都合が良い話だな。モースが脱走した時ですら親を逃がす努力もなく、誰かに相談することもなく、守護役の職務を果たすこともなく、他国の王族に敬意を払うこともない自分の愚かさに気付きもしないで』
「みんな、誰も何も言ってないっていう、あたし以外には誰も聞いてないけど、でもあたしには聞こえるんだよ!ずっとずっと、ダアトであたしを見る度にみんな言うんだ、あたしのこと責めて見下してる!」
「アニス、しっかりして!ご両親が人質だったんだもの、あなたは何も悪くないわ!」
「違う、違う!」
ティアは両親の件を持ち出して宥めようとするが、アニスはそれを受け付けず、言い訳になんてならないんだよ、と否定する。
「あたし、逃げてたんだよ。確かにイオン様の時はパパとママを人質にとられたけど、その前にはそうじゃなかった。パパとママは外にいて監禁なんてされてなかったし、モースが脱走していた時だってあったのに、あたしはパパとママを逃がそうとしなかった!ここにいれば貧民街にいた時より良い生活できるし、借金のこともモースが討伐されるかこのまま逃げ続ければうやむやになるかもって思ってたんだ。モースがそうせずに戻ってきてまたスパイをやらされるかもしれないことや、そうなったらまた人が死ぬことに考えなしに、楽観の方に逃げたんだ。そうやって逃げて甘えてばかりいたからあんなことになったの!どうしようもなかった訳じゃない、しようとしなかったんだよ!」
泣き崩れるアニスに、ガイも泣きそうな声で俺も同じだ、と答える。
「ファブレ公爵家に行くと、ラムダスやメイドたちや、白光騎士たちが俺を罵ってる声が聞こえるんだ。ルークもナタリアも何も聞こえないっていうけど、俺には聞こえる。俺はヴァンの同志で、共犯者だった。例えメイドたちを直接傷付ける気がなくたって、彼女たちの主人に危害を加えていた。ルークが騙されるのに協力して、騙されるのを見捨て続けて、危険人物が屋敷に出入りするのを見捨て続けて、ずっと屋敷の人々全てに危害を加えていたんだよ。なのに俺は、暗殺しなかったから何もしてないみたいな気になって忘れちまってた。その手段でみんなを傷付けていたなんて自覚してなかった。ルークにも、メイドたちにも、何も変わらない親友で保護者や、同僚のままのつもりで笑ってた」
あの時ガイの顔から笑顔が消えたのは、やっとメイドたちの気持ちが分かったからだった。
自分たちの屋敷を、自分たちの主人を、危害を加えて見捨てた同僚の顔をした共犯者が、謝罪も罪悪感もなくニヤニヤ笑って屋敷に出入りするのは更に罪悪感のなさを見せつけているようなもので、彼女たちを更に怒らせ、軽蔑されていたのだ。
「アクゼリュスのことだって──ルークだけの罪じゃなかった。俺がヴァンに協力して、ヴァンに騙されるルークを見捨てたのもアクゼリュス崩落の一端になったし、ルークがやらされる一端にもなってたんだ。なのに俺は、すっとその罪を自覚してなかった。自分の非を認めずに全て人のせいにしてばかりだったんだ。誰にも、ヴァンの共犯としてしたことを自覚も謝罪もしなかった。誰の気持ちも分からなかった、考えなかった」
「あたしも、罪を自覚しているつもりで、ずっと自分の罪に気付かなかったんだ。アクゼリュス救援を要請する使者だった大佐を襲うってことは、救援の邪魔をするってことだったんだよ。あたしはそれを手伝ったんだ、アクゼリュスの救援を邪魔して住民から救援を奪って死なせるのを!なのにあたしは、救援の人手が足りないことにも、手遅れになってヤバイ人たちがいることにも、自分の罪なんて感じてなかった。あたしはアクゼリュスの人たちを死なせようとした罪さえ自覚できなかったんだよ、そんな自分の愚かさも分かってなかった、他人のことは罪を犯せばその愚かさを見下したくせに、あたしは自分の罪も罪を犯した愚かさも自覚しなかった!」
ようやく自覚した罪と分かった他人の気持ちに打ちのめされて啜り泣く二人に、ティアももう庇う言葉を見つけられなかった。
「『他人の気持ちを察することができる薬』・・・・・・」
ふとティアは、『無神経でわがままで傲慢で、人の気持ちを察したり気遣うことができないルーク』に飲ませようとして自分たちが飲んでしまったあの薬のことを思い出す。
二人も原因に気付いていたのだろう、ティアの言葉に頷きを返す。
「あの薬を飲んでから、だな。こんな声が聞こえるようになったのは」
「あたしたちが無神経で傲慢で、察することができなかった人の気持ちや罪を糾弾する言葉が聞こえてくる薬、だったんだね・・・・・・」
「どうやら何時もでも全員でもなくて、効果にはムラがあるらしいけど、どんどん強くなっているみたいだ。薬が少なかったのかティアは俺たちほど強い症状はでてないみたいだけど、でもティアも聞こえたんだろう?ファブレ公爵家でメイドの声が」
ティアはその言葉にあのアンナというメイドの声を思い出す。
『なんて傲慢な女かしら、素知らぬ顔をしてこの屋敷に出入りできるなんて。襲撃犯のくせに、私たちや奥方様、ルーク様を巻き添えにしたくせに』
『私たちに謝りもせず、謝る必要があるとも思わないままで、笑って屋敷に出入りするなんて、人の気持ちが分からない傲慢な人たち』
「わ・・・・・・私は、仕方がなかったのよ!兄さんを止めるためだったんだもの、どうしてあんな風に私を責めるの!」
「・・・・・・あの時は俺も気付かなかったけれど、今考えたらそれは充分に公爵家の人間に恨まれる理由だよ。確かにヴァンは討たなければならなかっただろうけど、公爵家で襲わなくても良かったし、ティアは謝ってもいなかっただろう。屋敷を襲撃して、譜歌をみんなにかけて、白光騎士団を・・・・・・屋敷を護る警備を奪ったのに、謝りもせずに平気な顔で屋敷に出入りしていただろう」
俺も謝られたことなかったよな、というガイに、自分は彼らを被害者としてみたことがなかったと気がついた。
そして自分を加害者と思ったこともなかった、襲撃だなんて思ってもいなかった。
ティアにとってファブレ公爵家は“ルークの家”でしかなかったから、メイドたちの気持ちなど察しようともしなかった。
床に崩れ落ちるように座り込み、手で顔を覆って今更の謝罪を呟く。
でもあのメイドたちは、今更の謝罪をきっともう受け入れも、ティアを許しもしないだろう。
あの視線はとうにティアを見限り、何の期待もしていなかった。
あのメイドだけではなく、ラムダスも、白光騎士たちも、他のメイドたちも、誰もがティアやガイをそういう目で見るようになっていた。
「無神経、傲慢で、人の気持ちが分からなかったのは・・・・・・誰だったんだろうな・・・・・・」
ガイがそう自嘲した時、屋敷の執事がルークの来訪を告げる。
ティアはそれを聞いた時、この屋敷から逃げだしたい気持ちになった。
人の気持ちなんて分かりたくない、ルークの気持ちなんて知りたくない。
両手で耳を覆ったが、頭の中に響く声から逃れられるはずもないことにすぐ気付き不安と恐怖だけが胸を満たしていく。
初めてルークから逃げたいと思った、ルークの心の中の自分に、もう自信が持てなかった。
アニスも、もう無根拠に信じていたティアへの好意への幻想は滅んだのか、気遣いとも哀れみともつかない視線をティアに向け、ガイもまた自分自身への幻想は既に滅んでいるのか、震える声で部屋への案内を指示する。
今まで察することもなく、察しようと思わなかったルークの心の声は、彼らになんというのだろう?
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