「ナタリア殿下、何度も申し上げましたように、ルーク様は記憶を喪失し赤子のようになってしまわれたのです。字や言葉はもちろん、食事や歩行などの基本的な動作すらも全ての記憶を失われて。ご両親の顔すら覚えておられない今のルーク様にとって、ここは見知らぬ屋敷、殿下も婚約者でも従姉でもなく見知らぬ他人なのですよ。突然に何処とも分からぬ屋敷で、誰とも知らぬ人間に、理解できない言葉で、読めもしない字で記された書物で、出来るはずのない勉強を強要されるルーク様のお気持ちをお察し下さい!」

もうこれで何回目だろう。
医師は泣いているルークを後ろに庇い、ナタリアに向かって必死に説明と懇願をしながらも、どこか諦めたような気持ちにもなっていた。
数え切れないほどに繰り返してきた言葉だが、やはり今までと同じように目の前に王女の心には響かないらしく怒って自己を正当化しようとするだけだ。

「わたくしはただ、ルークのためを想い、私の愛にかけてルークを立派な王族に戻そうとしているだけです、ルークが心配だからこそ、厳しくとも心を鬼にして鍛えなければならないのですわ!」

「不可能なことを強いるのは厳しさや鍛錬とは違います!殿下はルーク様が勉強できないことにあからさまに呆れや責めを表されるが、それは赤子が本を読めぬことに呆れるのと同じなのですよ、そんな風に自分が悪くないことを悪いと責められ続ければ、人の心は鍛えられるどころか傷付き壊れてしまいかねません!」

「ルークはそんなに弱い人間ではありませんわ!わたくしに共に国を変えようと約束してくれたほどのルークですもの、きっとこの厳しい勉強にだって耐えて元のルークに戻ってくれるはずです!」

「ですから、まず字を覚えてからでなければ勉強自体が不可能なのです、それをせずに難解な書物を押し付けるのは勉強にもルーク様のためにも何にもなりません!」

医師もこの任につくまでは幼いながら慈愛に満ちた気高き姫と評判の王女に敬意と忠誠心を抱いていたが、既にそれは幻想にすぎなかったのだと思い知り、こんなやり取りをする度に沸いてくるのは呆れと嫌悪ばかりだった。

この王女には人の気持ちを察する、気遣うと言うことができないのだろうか。
不可能なことを強制し、嫌がっても泣いても構うことなく、出来ないことに呆れて責めて、どうして愛しているという相手にそんなことができるのだろう。
一体どんな環境に育てばここまで他人の気持ちを知らず考えずにいられるのか、と医師はつい王女の父親である国王の育て方を疑ってしまう。

その後、医師から相談を受けたルークの母でナタリアの叔母にあたるシュザンヌの口からも何度も同じことを言われ無理な勉強を止められても、ナタリアは自分が間違っているなどとは毛ほども思うことはなく、頻繁にファブレ家を訪れては泣き叫んで拒むルークに無理な勉強を強い続けた。







愛にかけた理不尽







「叔母様、この字は一体・・・・・・?」

その本に書かれている字は全てナタリアには見覚えのないものばかりで、当然ながら内容は全く理解することができなかった。

数日前、突然に叔母のシュザンヌからナタリアの勉強をみてあげたいという申し出があった。
シュザンヌはナタリアを可愛がってはくれたが、今までそうしたことはなかったため喜んだナタリアは二つ返事で了承して楽しみに待っていたというのに、教材だと差し出された本はオールドランドの共通語ではない字で記されたものばかりだった。
しかも分厚い本にびっしりと記された字の多さや何かの図形からみて、内容も相当難解なものだと察することができる。

勉強をするのに理解できない字で書かれた難解な書物を教材にする叔母の意図が理解できず不思議そうに問いかけると、シュザンヌは今までナタリアに向けたことのない冷たい声音で答えた。

「それはかつてキムラスカの西部にあった古い国々で使われていた言語よ。今でも西部の一部ではフォニック言語と併用してこの言語が使われているけれど、バチカルでは一般には使われることも目にすることもないから知らないでしょうね。今日の勉強はこの言語で記された書物を使って行います」

何故突然に、そんなナタリアにとっては異国語にも等しい言語で記された書物で学ばなければいけないのか、ナタリアが更に説明を求めようとしても全て跳ねのけて、シュザンヌは常になく強引に広げた書物を押し付けて勉強を強いてきた。
その態度にナタリアは戸惑いながらも、初めて叔母に抱いた恐れから逆らえず渋々書物を手に取る。

「でも叔母様、いきなりこのような難しそうな書物を出されても読むこともできませんわ。まずはこの言語を解するようになりませんと」

「言語を解する?そんなこと必要ないでしょう?」

一瞬、聞き違いかと思った。
叔母の言うことはあまりに非常識で、到底信じられないことだったから。
けれどナタリアの問うような視線にシュザンヌは淡々と同じ言葉を返す。

言語を解する必要などない、早く勉強を始めなさい、と。

「で、でも叔母様、この言語を解することができなければ書物の意味など理解できませんし、勉強だってできませんわ。何が書いてあるのかそれすら分かりませんもの」

「ええ。普通はそうでしょうね。でもあなたには必要ないでしょう?あなたは字が読めずとも難解な書物の内容を理解して勉強できるのだから、字を解することなど必要はないでしょう?」

叔母が何を言っているのか、ナタリアには理解出来なかった。
字が読めないのに本の内容を理解する、そんなこと自分にできるはずがない、いや、そんなことができる人間などいるはずがないではないか。

不可能に決まっている、それなのに叔母は当然のように不可能を可能にしろと強いてくる。

「さあ、早くその書物を読んで頂戴。叔母が可愛い姪のために、愛情を込めて揃えてあげた書物を無駄にすると言うの?わたくしはあなたなら出来ると思って、心を鬼にして厳しく鍛えてあげようとしているのに」

可愛い姪、愛情を込めて、そう言いつつもシュザンヌの視線も声音も氷のように冷え切っていた。

「お、叔母様、そんなことできるはずがありません、叔母様だっておわかりのはずでしょう、どうしてこんなことを・・・・・・」

優しかった叔母のいじめのような仕打ちにナタリアが涙を流し本を取り落とすと、シュザンヌは即座にそれを拾い上げて容赦なくナタリアに押し付け、鋭く叱咤する。

「駄目ですナタリア!」

体を縮こまらせるナタリアの様子に構うことなく、シュザンヌは先程と同じように勉強を強いる。
できるはずのない、読めもしない字で記された書物での勉強を。

「あなたはキムラスカの王女。そして次期国王の婚約者なのですよ?しっかり勉強して頂かないと」

「叔母・・・さま・・・・・・?」

シュザンヌが、優しかった叔母が見知らぬ他人に見えた。
自分の嘆きも、無理だという訴えも聞かず、自分の気持ちなどどうでもよいかのような態度が信じられなかった。

怯えたナタリアが再び押し付けられた本を取り落とせば、シュザンヌはあからさまに呆れを表し責めるように溜息を吐く。

「せめて読み書きだけでもできないと」

あまりな理不尽の繰り返しに、ナタリアの胸は怒りと悲しみで一杯になる。

何故こんなにも蔑まれなければならないのか。
字が読めないから本に書かれていることが理解できないこと、勉強ができないことはそんなに悪いというのだろうか。
こんなに泣いて、怯えて、必死に拒んでいるのに、なぜ叔母は少しも自分の気持ちを分かってくれないのか。

「い、いい加減にして下さいまし、読み書きだけでもというなら、どうしてそれを教えて下さらないのです!?叔母様は難解な書物を押し付けて勉強を強いるばかりで、段階を踏んで読み書きから教えては下さらないではないですか、いきなり本を押し付けて読み書きができないことを蔑むなど、理不尽すぎますわ!」

怒って、悲しんで、顔をぐしゃぐしゃにして子供のようにしゃくり上げるナタリアをみても、シュザンヌは冷たい無表情のまま眉ひとつ動かすことはない。

「叔母様、叔母様はわたくしを虐めたいのですか?出来るはずもないことを当たり前のように強要して、出来ないことを蔑むなんて、こんなこと・・・・・・私を苦しめようとしているとしか思えません!あんまりですわ!」

わっと泣き伏したナタリアに溜息をついて、ようやくシュザンヌは押し付けていた本を引いた。

「ええ、そうね。順番が違う。理不尽。出来るはずがない。虐めのよう、苦しめようとしているかのよう・・・・・・全てあなたの言うとおりだわ」

わかってくれたのか、そう安心しかけて顔をあげたナタリアの目に映る優しかった叔母の顔は、先程よりも凍てついていた。

「けれど、それがあなたが今までルークにしてきたことなのよ?私の愛にかけて、そういってあなたは言葉も字も忘れてしまったあの子に難解な書物を押し付けて無理な勉強を強いてきた。出来るはずのないことを当たり前のように強要し、出来なければ呆れて蔑んで。そうやってあなたは、あの子を厳しく鍛えていたのでしょう?」

その言葉に、ようやくナタリアは叔母が豹変した態度をとった理由を悟る。

叔母が言ったことは、今まで何度も何度も言葉で説明されてきたことだった。
それに耳を傾け、自分がしていることがルークにとってどういうことなのか気持ちを察する努力をしていれば分かっただろう。
言葉も字も理解できないのに難解な書物で勉強するなど不可能なことも、そんな無理を強いられて出来ないことに呆れられる気持ちも、想像できただろう。

けれどナタリアは、口でいくら言っても理解しようしない。
自分の愛に陶酔して、他人の気持ちなど苦しみなど考えもしない。
ルークへの愛にかけてといいながら、ルークの気持ちも苦しみも想像しようとはしなかった。

だからシュザンヌは、ナタリアに同じ立場をとらせることでそれを分からせようとした。
そこまでしなければ理解できないと思われるほどに、ナタリアはあれほど優しかった叔母に見限られかけていた。

「出来るはずのないことを強いられて、出来なければ呆れて蔑まれる辛さが、理解できたかしら?」

ナタリアは先程までとは違う自分自身への怒りと、叔母にそこまで見限られた悲しみからの涙に頬を濡らし、頷いて力なく項垂れた。












ナタリアのルークへの強制勉強はアニメ六話より。




                        
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