アッシュは柵に身体をもたれさせ、やつれて青ざめた顔で暗い海を覗き込んでいた。
太陽の光に照らされた青い海にカモメの泣き声、船の上ではしゃぎまわっている子供たちと窘める親の声、のどかで平和な光景の中にいても、心は全く温まらず冷えきったままだ。
船酔いかねお客さん、良い薬があるよ、と気遣ってくれる船員に生返事で返しながら、これからどこに行こうかとぼんやりと考える。

行くあてなどない。
キムラスカの王女が本気になって捜したら大抵の所は見つかるだろう。

けれどもう、自分を見ていない婚約者と共にいるのは限界だった。







幼い恋は死に絶えた







この二年間、いやあの旅の間もいれれば三年近く、ナタリアがアッシュを見てくれたことは一度もなかった。

ナタリアの目に映っているのは、求めているのは、今の“アッシュ”ではなく十歳のままのもうアッシュが決して戻ることのできない“ルーク”だった。
アッシュがキムラスカに帰還し、再びファブレ公爵子息、第三王位継承者、ナタリアの婚約者に戻ってから、何時も今のアッシュを否定して、昔と違うことをすれば変わってしまった、元のルークに戻ったくださいましと責めて約束を求めてくる。

もう俺は違うんだと止めてくれと何度言っても聞き入れない。
二年間、毎日のようにそれが繰り返された。

アッシュの拒絶にも関わらずナタリアの“ルーク”への執着はますます強くなり、最近ではナタリアが語る思い出をアッシュが覚えていなければ泣いて思い出せと縋りつき、アッシュを一刻も早く立派な王族に戻すためと称して、アッシュが長いことダアトにいたため教育を受けてない分野のものを、基礎を教えることなく最初から高度な学問を要求してくるようになっていった。

押し付けられた難解な書物を基礎を理解してからでなければ無理だ、時間をとって学ぶから待っていてくれと返しても、怒って再び押し付けてすぐに理解することを強要し、できなければあからさまに呆れを表してせめてこれぐらいは出来なければとアッシュの心を抉る言葉をぶつけてくる。

ナタリアや同年代のキムラスカ貴族なら当然の知識であっても、長年ダアトでヴァンの手駒としての扱いしか受けていなかったアッシュはそうではないのに、アッシュの状態などちっとも構ってはくれなかった。
できるはずのないことを強要されて、できなければあからさまに呆れられるアッシュの心情など気遣ってはくれなかった。


そのうちアッシュはナタリアの顔をみる度に胃痛や吐き気を覚えるようになったが、それでもナタリアはアッシュの体調の悪化にも頓着しない。
ただ元の“ルーク”、立派な王族、ナタリアの思い出の中のルークに戻ることだけを強いてくる。




とうとう耐えられなくなったアッシュは、気が付くと着の身着のままでケセドニア行きの船に飛び乗っていた。

アッシュが十歳のルークと同じ人間であっても、十歳のまま何も変わらずにいられるはずがない。
それまでと激変した環境に七年もいたのなら尚更に。
まして鮮血のアッシュは、もう純粋だった頃に戻るには罪と血に濡れ過ぎている。

なのにナタリアは、アッシュの変化を認めようとしない。
“ルーク”は十歳のまま何も変わっていないと頑なに信じ込み、違う所は十歳のままだと言い張って認めないか、十歳に戻そうと拒絶するかだ。


もうアッシュは、ナタリアの中の“ルーク”ではなくなっているのに。


ナタリアも変わってしまったのだろうか。
それとも自分が持っていた優しくて自分を大切に思ってくれている幼馴染なんて幻想だったのだろうか。

どちらにしても、ナタリアがもはやアッシュの陽だまりではなくなっていたことだけは確かだった。
ナタリアが愛していた“ルーク”も、アッシュが愛していた“ナタリア”も、もうあの幼い恋人たちはこの世の何処にもいなかった。















                        
戻る